こないだの連休はヨメのおばあちゃんの葬式じゃったげな。
5年ほどまえから痴呆の症状が出たり、その入院先で脳卒中2回起こしたりしてて「かなりまずそう」って話になってて。
酸素吸入と胃瘻とで寝たきりになってたような状態なのに、先週の日曜、ヨメとムスメが訪れたら、普段はしないような動きと発声をしていたという。
そしてその翌日の月曜日、静かに息を引き取られた。
御年91才。
まあ、大往生の類に入れていいと思う。
最近は斎場もなかなか空きがないとのことで、お通夜が1週間後の土曜、告別式が翌日曜で、初七日もいっしょに行うという。
親族ということで、湯灌(といっても略式だけど)から立ち会わせていただく。
生きてたころよりひときわ小さくなったおばあちゃんを脱脂綿で清拭し、手甲と脚絆をつけて納棺する。
ムスメは6才なりに感じるところがあったのか、恐れる様子もなく、大人たちを手伝っていた。
その後、お通夜を経て翌日の告別式、そして火葬場へ。
真っ白な骨になったおばあちゃんを、不思議そうな顔で見るムスメ。
長い箸でそれをつかみ、骨壺に収めるあいだ、何を考えていたのだろう。
肉親の葬式など、いつぶりだろうか。
ちゃんと「役割」を持って葬式に出たのは、はじめてかもしれない。
いろんなことをするんだなあ、とか、葬式の所作にもいろいろやり方があって、それぞれにちゃんと意味があるんだなあ、とか、いろんなことをぼんやり考えながら。
そんなに何度も話したわけでもないおばあちゃんとの、なんということもない会話が思い出されて、うっすら涙がにじんだり。
人が死ぬ。
こんなにも切なくて、悲しいものなんだということを思い出した。
人は死ぬ。
わかっていることであっても、それが予期されたものであっても、やっぱり悲しいんだ。
命の大切さとか、別れの悲しみとか。
そういうものを残して死ねるというのも、生前の行いというものなんだろうなあ。
ムスメは、そういうモノからなにかを感じてくれているんだろうか。
そんなことを、思いながら。
オチはない。
2012年7月18日水曜日
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ムスメさんは何かを感じとるよ。
返信削除死にゆく人は、最後の役目(?)として、死ぬとどうなるかを見せてくれる。
とりあえず、この世では動かなくなる、話もできなくなる、体温も無くなる。
そして、生きているうちにたくさんお話をしようとか、
人を殺すのは愚かな事だ、とか、
いろいろ分かる。
変な言い方だが、人の死は見ておくべきもの、と思う。
んー、なんぞ感じてくれとるとよいのじゃがー。
返信削除やっぱ、命の大事さって、こういうのがねえとわかんねえっすよな。
小は生き物殺して食うところから、大は肉親や近しい人の死まで。
死の重さって身近な人が無くなって初めて気がつくと思います。自分もそうでした。
返信削除一昔前までは漫画やゲームのような仮想世界が子供に良くないとか言って叩かれた時代がありましたが、死に関してその古い考えもあながち間違いでもないかなと思います。
仮想世界では死があまりに軽すぎるので。
最近は仮想世界を子供の頃から体験した人達が大人になってあまりそういうこと言われなくなっている気がしますが。
そうなんですよねー。
返信削除見知らぬ人の死ってのは、どうしても数字的ななにかとかいう形で捉えちゃうっていうか。
身近な”人”じゃなく、ペットとかでもそうなんですしょうけど、身近なものが失われる痛みってのは、やっぱり体験しないと実感できないんでしょうね。
ただ、仮想世界が問題なんじゃなくて、「仮想世界しか体験していない」ことが問題だと思うのですよ。
別に1日20時間ウィザードリィやってる奴だって、肉親の死を間近に見てれば人が生き返ることはないなんて思わないだろうし。
言われなくなってきたってのは、その辺のことが体感としてわかる世代が大人になった、ってことなのかもしれませんやね。